哲学とか何でだろう。思い出してみる。

 id:gordias:20070513:1179051363なんぞを読みながら、ポストモダン構造主義が全く理解できないお馬鹿な私も仮にも哲学科卒なので、何で私が性別&性自認女性の分際で(笑)哲学に惹かれるようになったのか、お茶など飲みながらふと考えてみた。子供の頃から星空を見て宇宙の虚無と無限に圧倒され、宇宙の死を怖れていたそんな子供だった。クトゥルー全五巻を一気に読んだその日の夜、怖くて眠れなかった。

 ディスコミで、いつも学校では一人浮いていた。男子の輪にも女子の和にも入れないで一人でいつも考え事をして、御飯を食べて、図書館(図書室)に通うそんな子供。

 女性としての自分をまるで理解できず、ただそうだからそういうもんだと思っていた。自分は女に生まれるべきでないと思っていた。(※FtMてわけじゃないです。当時この言葉を知っていたら、そう思い込んでいたかもしれませんが)

 哲学者の男根主義全開の言質も、違和感を感じつつも苦も無く受け入れてしまえる。寧ろフェミニスト男根主義批判に違和感を感じる。神学者達の無限への希求、真理の探究に、女性としてのアイデンティティよりも強く共感する。そんな変な、女子になってしまいました。思想的にはフェミ寄りの筈なんだけどね。旨い具合に整合性が付けられなくて、今は放置しています。
 あの説得力は何なんだろうな。自分は男根主義者なのかな。などとたわいもない事を考えながら、おいしく緑茶を啜るのです。

 哲学の方は完全に趣味で手を出し、運良く(笑)ポストモダンに手を出さなかったのでそっち方面の議論にはさっぱり付いていけずに哲学屋の看板をひっそりこっそりしまい込む事にしてすっかり実践の方に走ってしまいました。
 言葉をひねくっても、飯は食えぬし自己実現は出来ない、という事に気付いてしまったから、かも知れません。


 後、昔の哲学って実践(魔術、錬金術=科学、タントリズム密教)と不可分だったのね。それこそ17,18世紀くらいまではそうじゃなかったかな。それがふっつり切れて、今の哲学は実践の出し殻になってしまった。そんな気がする。
 哲学は理論付けで、実践を支える物だったわけ。でも理論(根っこ)が無いと、心は不安定にフワフワ、遊んでしまって帰って来れない。文字通り、魔道に堕ちる訳ですわ。心は自由だけど、縛りがないと暴走しますから。
 だからグノーシスは滅びたんだろうな。思想が肉の否定なんだもん。そりゃ無理だわ。バランス取れない。実践は動足掻いても物質と不可分で、それを否定しては成り立ち得ない。だから発狂した連中も多数いたんだろうなあ。


Do what thou wilt shall be the whole of the Law.