プレイ日記ではない。

 影響を受けたゲーム5つをあげたのと、その作者様とやりとりをする機会があったので(よく考えたら、影響を受けたゲーム5つの内、2つのゲームの作者と交流を持てているのだ。これぞ運命、感謝。感謝)ちょこっとその事を語ってみたりしたい。2回目があるかどうかはわからんが、第一回目は「学校であった怖い話」だ。


 このゲームは私にとって、実に斬新で驚くべき物であった。


 当時、サウンドノベルというジャンルに、正直馴染めないと同時に『こんなのゲームじゃない』という思いを強く抱いていた。どんな選択肢を選んでも別に結果は変化しない。世界にプレイヤーは介在の余地がない。それがサウンドノベルだと思っていた。
 選択肢を選ぶ→変数の変化→バックラウンドで処理、エンディングを選ぶ。プレイヤーには変数の変化は全く目に見えない。ちょっと違った選択肢が表示されても、結局中身は一緒なんだという事に気付いたのは、5,6種類目のエンディングを見た頃だろうか。


 そのゲームの名前は『弟切草』。
 私はこのゲームの面白さを、未だに理解できていない。


 その後、このゲームを貸してくれた同じ友人が『かまいたちの夜』を貸してくれた。メインシナリオで犯人の名前がどうしても解らなくてアウト。そりゃ偽名を入れてりゃ解らんわな。別シナリオにもどうしてもいけなくてアウト。そして断念。
 選択がシナリオにダイレクトに反映されないのは『弟切草』と同じだな、とぼんやり思っていた。


 どうして選択肢の選択がシナリオにダイレクトに反映されないんだ!
 素直に反映すればいいじゃないか!
 これが当時の私にとっての一番の苛立ち。シナリオの流れも別に変わらない。ちょっとメッセージが違うだけ。


 私はルーチンワークが苦手なのだ。
 卒業もアンジェリークも初代ときメモも2周して飽きた。
 サウンドノベルルーチンワークじゃないか、こんなのゲームじゃねえと思ってた。


 その概念を一蹴したのが『学校であった怖い話』。


 私は別に全然ホラー好きではない。寧ろホラー映画は全く見ない。驚かされるのが嫌いなので、心臓に悪い事はあんまりしたくないのだ。オカルトマニアではあるが、別に霊がどうこうとかに恐怖する事もない。ジェットコースターの方がよっぽど怖い。
 というか、学校であった怖い話は全然怖くないのだ。寧ろ笑ってしまう。
 シナリオは良く出来ていた、と思うが、ホラーとしては失格である。落第。全然怖くない。それどころか、ギャグである。
 しかも登場人物はみんなキチガイだ。便器マニアのホモ、映画マニアのホモ、死にかけの年寄りの観察日記を付けるキチガイ女、みんな変態だ! 素晴らしい!(※ホメてます)
 こんなイカシたホラコメ、サイココメディ(サイコメ、とでも略するべき?)見た事無い。
 私はこの作品にゾッコンだ。まともな人物が誰一人出てこないのだ。
 因みに私が、この作品で一番マトモだなと思ったのは早苗ちゃんである事を付け加えておこう。其れ位狂ってる。無論ホメ言葉だ。こいつら霊より悪魔よりこえぇ。


 作者の飯島健男氏は、霊より人間の方が怖いと仰っていたが、正しくその通りである。


 で、システムだが、やってる事は昔のゲームブックと大差ない。膨大なシナリオとチャートを除けば、システム的に難しいことは何にもしていない。何にもだ。にもかかわらず、断然面白い。
 ゲームの面白さの本質は、ファミコン時代から何にも変わってない。
 グラフィックでもカッコイイムービーでもヴォイスでもない。派手な動きでもない。
 ゲームの面白さはカタルシス、達成感だ!


 自分の選んだ選択肢に責任を持つ、それがゲームの良さ。
 世界の半分を貰ってレベル1になるのもプレイヤーの責任。
 宝箱のわなを外し損ねて、ダンジョンの石の中にテレポート、LOSTするのもプレイヤーの責任。
 サタンとルシファー殺して唯一神に子々孫々まで呪われるのもプレイヤーの責任。
 おねーちゃん死なせて暗殺されるのもプレイヤーの責任。
 変な選択肢を選んでゲームオーバーもプレイヤーの責任。


 私が望んでいたのは、プレイヤー責任だ。
 責任があればこその達成感ではないか?


 そして何より、この手法は、自分にも真似出来るかもしれない、という希望を与えてくれた。
 もしこの希望がなかったら、私はゲームを作っていなかっただろう。それ(自分の作った作品)が、プレイヤー諸氏やフリーゲーム業界に何らかの影響を与えたかどうかは別として。


 という訳で、飯島健男様、有難う御座いました。
 もっといいゲーム作るぞ(その前に仕事を、仕事を)