『痴人の愛』

 痴人の愛について仕事中だらだらと考えを巡らせていて、ふと気付いた。
 ヒロイン・ナオミは何だかんだ言って主人公に依存している。二人は互いに依存している関係なのだが、ナオミは依存している自分を認めない為、そして依存しながらも上位に立っていたいが為に主人公を惑わしているのだと。


 『痴人の愛』はいわゆるファム・ファタル寓話の一形態であるのだが――ファム・ファタル=魔性の女って、マスコミで良く某芸能人や某芸能人が取り沙汰されるわけですが、ファム・ファタルってのはマスコミの作り上げた虚像に過ぎないのだと思う。もっと言ってしまえば、現実の女性は多少計算高いところがあっても、真の意味で『魔性の女』なのかといえば決してそうでは無かろう。部分的には受け継いでいても、所詮ファム・ファタルというイデアの影に過ぎない。要するにファム・ファタルってのはオタクにとっての二次元美少女なのだ。弄ばれるか、弄ぶかの違いで、現実的でないという点で。現実の女が計算尽くで男性を弄んだとして、弄ぶ為に弄ぶのかと言えばそうではなくて、実際は生き抜く為の、時には傷付かない為の心の防衛装置であり、欲望を追求する為の手段として、そして時には結果としてそうなっているのだろうな、と思うのだ。


 ナオミは明らかに、そういう存在ではない。ナオミは、私の目からすればニンフォマニアだとも思えないし(肉欲そのものが目的であるようには思われなかったから)、寂しいから体を重ねているのでもあるまい。娼婦的なようで、そうでもない。作中前半で着物を次々取り替えるように、男の間を渡り歩く。彼女にとっては、男は着物なのかも知れない。新奇な物を次々に手に入れる、手に入れる行為が目的なのではないか?
 別に金を持っている男なら主人公でなくたって良い筈だし、彼女には金持ちを落とす位の手練手管はお手の物だろう。だが、そうしない。結局は、主人公の元に帰る。何故? 彼女と寝る男、彼女に貢いでやる男はいても、主人公ほどナオミに心酔し、依存している存在はないからではないだろうか?
 ナオミはあくまでもファム・ファタルの化身でありながら、そのものではない。ファム・ファタルは概念でしかない。と、ふと、そんな事を思った。


 そこまで結論が出てから、ナオミってひょっとして境界性人格障害なのか? と思ったのはナイショ。