はじめてのまじゅつ。

 初めてもクソももう初めてから6年経ってるよ! いや、もう7年か。うわー。んでも気付きは亀の如し、どんなに分厚い国書刊行会の本を読み尽くしても全然実になっちゃいないけどね。やれやれ、道理で上達しないわけだ。
 魔術に於いてペルソナを被る事の意味が漸く、ここ一ヶ月くらいで解りつつある、ってのがまた情けないんだなこりゃ。魔術的人格って奴が、ただ単に「日常と切り離す=防護壁」以上の意味がある事に漸く気付く。どんなに本に書いてあったって、自らの気付きとして血肉にしなくっちゃホントに役に立たないんだなぁ。あ、もう初歩の初歩なんで、ホントに笑い者にしていただいて構いませんとも。
 例えば物を書く/描く際に、書く/描く対象に感情移入して顔をねじ曲げてみたり、ストーリーやセリフをひねり出す際にそのキャラクターになりきってみたりというのはいわば魔術における召喚とかゴッドフォームとか(一応両者は違うらしいけど、ばかだからよく解ってない)そーゆーのに近い、と思う。だけど、魔術でさあ、いざと構えた時、物を書く/描く時には無い「照れ」が生じる。何故か。
 物を書く/描くという行為に「私は主体でありながら客体である」というワンクッションがあるからじゃないのか、と。ワンクッションがあるからこそ、安心して人は客体の中に主体を置く事が出来る。もしそれが出来ないならそりゃものすごい達人か、ココロの病かどちらかではないか。
 そして、そのワンクッションが「魔術的人格」という奴だ。


 ふと此処まで書いてから、ひょっとすると今時の受動的ヲタクの方が、より対象に投影が楽に出来る分魔術には向いてるのかなあ、と思う。刹那的だけど(-x-;)Fra.id:Hocuspocus、どうでしょ?*1

*1:この仮定が真なら、魔術にはヤオラー<ドリーマー、エロゲ主人公=自分主義の方がより向いている?!